初出:日経BP社、日経アーキテクチュア

10.ナマコ壁の行方

木取り→製材→乾燥と進み,クリ普請もいよいよ仕上げの段階に。藤森教授,愛用の曲面カンナを持ち出し,施主とともにクリ材と格闘!






・・98年6月26日のスケッチ・・






・・99年4月24日のスケッチ・・






・・北沢さんとこでの実験
(写真:大嶋 信道)・・

 最初の方で触れたままになっているナマコ壁問題について結論を述べよう。もう忘れた読者が大半にちがいないが,タンカを切ったのだった。
 “ナマコ壁において,藤森は石山を超える”
 谷口酒造の既存の工場が思いもよらずナマコ壁となっており,伊豆大島が伊豆半島の建築文化圏に属することを思い知らされた。伊豆半島のナマコといえばこれはもう石山修武の領分でありまして,ということは,石山の文化的領土のなかで仕事をするに等しい。おとなしく新築部分でナマコを試みて恭順の意を表するか,それともナマコのような造形遺伝子来歴不明な文化的伝統など無視するか。
 伊豆大島で仕事をした建築家としては堀口捨己と吉阪隆正の二人がいて,堀口は戦前の昭和13年,大島測候所を,吉阪は戦後の昭和42年から43年にかけて,役場や公民館や中学校を作っているが,二人とも,モダニズムでやっており,ナマコの伝統は無視している。短絡して考えるなら,ナマコをやれば石山に恭順することになり,無視すればモダニズムに従うことになる。両方嫌だ。藤森は若き日に,石山の幻庵にウチノメサレタ過去があるし,また今さらモダニズムでもあるまい。
 でどうする。ナマコをやるしかない。それも石山の想像したこともないようなのを。この決意を固めたのは,現場をはじめて訪れナマコと出食わした時で,帰ってきて翌日の1998年6月22日付スケッチにおいてすでに壁に斜めの線を走らせている。しかしこの段階ではどういうナマコにするかまでは決めてなかったようだが,4日後の26日付スケッチになると,平瓦の代わりに鉄平石を使い,目地の漆喰盛り上げに代えて草を植える方針を固めている。そしてディテールも描いているし,壁のナマコと同じ仕上げをそのまま地面まで伸ばすスケッチもしている。ただ,鉄平石については可能かどうか自信なかったらしく,「平瓦 or 鉄平石」とメモがあり,「銅板」ともある。今,思い出したが,まず「銅板」を考え,ついで「平瓦 or 鉄平石」となったのだった。銅板などというヘンな材料を思い浮かべたのは,当時,計画中だった熊本県立農業大学校学生寮(2000年3月完成)で銅板の可能性をあれこれ追究していた影響だろう。
 平瓦を何に置き換えるかより,目地の漆喰を草にしてしまうことに気がいっていたのだった。私以外に試みる人がいるとも思えないから名前など付ける必要もないが,
 “草ナマコ壁”
 である。お魚界では“草”というのはよくない形容で,役に立たない小さいような種類を指し,草フグとか草ナマコというが,まあしかたない。
 ナマコ壁というのは表現上,奇抜な仕上げで,白と黒のコントラストといい斜めの線といい日本ばなれしているうえ,外国にも同系の美はなく,無国籍というかインターナショナルというかまことに孤立性が強いのだが,その漆喰を草に代えた草ナマコ壁の孤立性たるやいかほどだろうか。
 タンポポを植えた時もニラや一本松の時も,藤森はフザケテルと思った人もいたという。マアたしかに,建築にも笑いを,できたら哄笑をという気持ちは日頃からないでもないが,しかしけっしてフザケテルわけじゃなくて,現代建築と自然素材の関係,建築と植物の関係,大げさにいうなら人工物と自然の関係をどうするかが21世紀の大きなテーマであり,その辺にしかケンチクカ藤森の任はないと私は思い定めているのである。
 思い定めて実際にやると,タンポポやニラや一本松,そして今回のように椿や草ナマコになってしまうのだった。

 なってしまってから,いつもゾクゾクするような困難が待ち受けている。材料をどう調達する? ディテールは? そしてなによりそんな工事をやる人がいるのか? 以下のようにたいへんでした。
 平瓦の代わりは,銅板じゃなくて(銅板のベコベコも捨てがたかったが)鉄平石にすることに決めたまではよかったが……
 鉄平石は信州諏訪の特産で,地元では平石(ひらいし)と呼び,その平らで固い性格を活かしてさまざまに使ってきた。市販されるのは薄くかつ面積も1尺四方前後のものばかりだが,採ろうと思えば厚さ30センチ,広さ2坪なんてのも可能で,たいそう重宝する。まず古墳の天井石として使われた。地元の村の古墳はたいていそう。その後,いつ頃のことか,村人は,古墳の天井石のうち小壁のをはずしてきて,家の前を流れる小川にかかる橋や庭の橋に転用した。身近なところでいうと,漬物用の重石兼フタとして,子供の石ケリ用として好まれる。
 屋根用に使われるようになったのは,実は近代になってからで,明治の半ばという。その防火性から倉の屋根に多く使われている。商品として全国化したのはさらに遅れ,中央線が上諏訪・東京間に開通した明治39年以後で,東京に運ばれ,敷石用さらに壁の貼石用として販路を広げる。
 などとちょっと自慢気に説明してきたのは,信州諏訪は私の田舎だからだ。ちなみに伊東豊雄さんもそう。
 しかし,戦後,トタン板に押され屋根用は使われなくなり,もっぱら敷石や壁の貼石ばかり。敷石はともかく,木造家屋の玄関回りなどに貼石として使うと薄っぺらで擬石的表情が漂うせいか,ちゃんとした建築家はほとんど使わない。このことが,鉄平石と故郷を同じくする者として残念でたまらなかった。何かのおり,伊東さんも同感だと言ってた。
 使い方によっては,その青から赤におよぶ色の変化といい,強く凹凸したヘキカイ面といい,そうとうの実力者なのだ。同じ平らな石材でも,スレートとは比べものにならないほど荒らあらしくて力強い。で,私は,これまで3作でいろんな使い方を試みてきた。神長官守矢史料館では片流れ屋根に,タンポポ・ハウスでは宝形の屋根と壁にタンポポと混ぜこぜで,ニラ・ハウスでは宝形の大きな屋根に。
 それらの鉄平石工事のすべては,材工コミで(有)北沢鉄平石にお願いしてきた。現在,諏訪(上諏訪)には10社前後の鉄平石屋があり,北沢さんとこは親子2人プラスアルファにすぎないのに,もっと大きなところじゃなくて北沢さんと組んできたのは,志のある石屋さんだからだ。鉄平石が好きでたまらないうえに,業界の先に立って技術の改良につとめる半面,伝統的技術にも深い関心を払う。意欲と識見のある小規模石屋さんなのである。
 木材のカクダイなしに私の建築はなかったように,鉄平石の北沢さんなしに私の建築はない。
 なお,鉄平石工事の値段についていうと,普通一般の用途は別にして,現代建築の屋根に葺く工事については,実ははっきりしていない。なんせ実例が私の3作しかなく,それは北沢さんが格別な気持ちでやってくれたから実現したわけで,普通の注文についてはいかに適正な値を出したもんか,注文を前にして現在,悩んでいるとのこと。安くはないが,美術館なんかのクラスなら十分納まる範囲の値であるのはまちがいない。

 調達は北沢さんに頼めばいいが,ディテールについてはこっちが工夫するしかない。鉄平石をどう壁体に取りつけ,そのすき間から草はいかに生え出ればいいのか。もちろん給水も。
 最初は,以前に述べたように足場用の単管の構造を考えていたから,単管の表面にどう土を入れ,石を固定するかがテーマで,いく案も描いてみた。たとえば,1999年4月24日付の大嶋宛FAXでは,寸法入りの相当詰めたディテールが提案され,「土の層を極薄にする試み。給水があれば土の層は薄くてかまわない」と説明されている。この説明は後になるにつれて利いてきて,最終的にはごく少しの土に行きつくだろう。
 しかし,単管構造はあれこれあって止めになり,普通のコンクリート壁構造に変わる。単管よりずっと楽だが,それでもむずかしい。最初,コンクリート壁の表にスレート波板を貼り,それで空気層を確保して土を入れ,その上から石をアンカーで壁につなぐ方式を考えた。しかし手間がそうとうになるから,もっと簡単に,石をある空ゲキを置いて石用ボンドで壁に直に接着したらどうか。空気層がなくなり,水分,湿度の壁中伝達が心配だが,塗布防水なんかでなんとかなるだろう。
 私は,これでイケルと思ったが,大嶋がウンといわない。石用ボンドの耐久性が心配だから,アンカーは欠かせないと主張する。マアそうではある。私も,化学系材料の耐久性には確信がない。
 空気層をとり,石を化学的にではなく物理的に固定する確実で簡単な方法というのはないのか。二人であれこれ知恵を絞るのだが,行き詰まってしまった。
 行き詰まった時は,しばらく放っておくにかぎる。仕上げのことは後でもいいのだ。
 しばらくしているうちに,大嶋が面白い材料を探してきた。そして,これが突破口を開く。浅野スレートが出しているエバパネルという商品名のスレート板で,いっぷう変わった複層の板。コンクリート打ちの時,地下室のコンクリート壁の外側に打ち込むよう開発された型枠材で,これ1枚で土との間は大丈夫という。
 実物を見ると,建材としてはそうとうヘンなもので,コンクリート壁に接する方から言うと,まず繊維が毛のように生え,というかへばり付いている。この繊維がミソで,打ち込まれたコンクリートのノロをすみずみ行き渡らせて壁とスレート板(型枠)の密着性を強化するんだそうだ。毛のような繊維の次には合成樹脂の層があって,これは中空化し,空気層となる。さらにスレートの層。ようするに,打ち込み用の空気層付きスレート型枠なのである。
 このスレート型枠の表から,石をビスでねじ込んだらどうか,というのが大嶋の提案であった。イケソウ。
 土と草はどうするかというと,石より一回り小さいスタイロフォームを下地としてはさんで石をネジ止めし,目地に生ずる凸形の溝状の空隙に土を入れ,そして細く切った芝生を押し込む。

 善は急ごう。さっそく,北沢さんの石切場に出かけ,設計者二人と石屋の親子二人の四人は,先に届けてあったエバパネルを使い実験にかかる。
 一尺四方の石にビスで穴をあけてもらい,間に30ミリのスタイロフォームをはさんで,ビスをネジ込むのだが,なかなかうまくゆかない。まず困ったのは,穴の径とビスの径の問題。石にあける穴用のドリルの刃の径には限界があり,ある以上の太さの,ということは長さの,ビスは使えない。穴の径の上限に合わせて,ビスの長さの上限が決まり,その範囲内に,石とスタイロフォームとエバパネルを合わせた厚さが納まらないと,ビスは利かないのだ。ビスは合成樹脂の層をちょうど貫いた時に利き,それ以下では利かないし,それ以上に進むとコンクリートに当たった状態で空回りし,合成樹脂層を壊し,これも利かなくなる。
 スタイロフォームのように工業製品だと厚さは一定だが,鉄平石の厚さは1枚1枚で違うし,同じ1枚のなかでもものによると倍くらい違っている。ビスの長さのゆとりは,実は,合成樹脂の厚さ分,つまり15ミリしかない。この範囲内に石の厚さのバラ付きを納めないといけない。
 あれこれ失敗し,以上のことを確認したうえで,改めてやってみると,ちゃんと取り付けることができた。成功。
 土の入れ方については,かくべつ考えてなかったが,石切場の表土の赤土を持ってきて,手先で詰めてみた。ちゃんと入り,これですべて成功。
 しかし,若干の不安をぬぐえない。予定されるおよそ650枚もの石の厚さを誤差15ミリに納めることは実際に可能なのか。これは,北沢父子にまかせるとして,もう一つの不安は,土を手先で詰めることはできたものの,細い溝の中に充満させるのはそうとう手間取った。何らかの工夫をしないと,現場はたいへんになる。土を詰め,草を植え込むのは,ニラ・ハウス同様,施主と設計者とその友人知人のシロウト集団でやるしかないだろうが,あまり退屈な作業を延々やるとボランティア集団は気力を喪失する。
 “ツバキ城,完成直前に兵士の反乱で陥落!”
 てな,石山の大喜びしそうな事態になりかねないのだ。自分でいうのもナンだが,ほんとどうなるんだろう。