初出:日経BP社、日経アーキテクチュア

12.縄文建築団登場!

壁の次は屋根。
民家並みに傾斜を強くした屋根への草の植え込みもめどが立ち,“植物の建築化”をめざす。
いよいよ仕上げ工事へ。






・・縄文建築団発祥のニラ・ハウスの工事。

手前から赤瀬川,谷口,南・・







・・縄文建築団第2戦,秋野不矩美術館の手すり工事。

右手に赤瀬川・・







・・縄文建築団第3戦,ザ・フォーラムの工事。

手前から植島啓司,南,……・・

 すべて決まった。新しい試みについては,実験を繰り返しめども立った。大島では入手できないクリ材と鉄平石の二つは東海汽船に船積みされて大島に運ばれ,クリ材は地元の棟梁によって加工されたが,鉄平石は間違えて八丈島まで行ってから引き返し,現場に山積みされている。
 工事は,新しい試みの検討,試作を待たずしてすでに始まり,コンクリートは打ち上がり,木造部分も組み上がっている。
 あとは,自然と自然素材をふんだんに使う仕上げ工事を待つばかり。屋根のてっぺんには椿が植えられ,屋根面には芝生,壁面には草ナマコ,そしてインテリアは漆喰の壁。
 いよいよである。本当の勝負はここから。ここからは設計者が工事を手がける。正確には,施主と設計者とその友人知人が寄り集まって,藤森の指揮のもと一般的とはいいがたい仕上げ工事を遂行する。
 〈縄文建築団〉
 である。名前は力強くて立派だが,内実は,“建設工事その都度ファンクラブ”もしくは“工事趣味の会”。
 私のまわりにこんなヘンなグループが生まれてくるなんて十数年前に設計をはじめた当初,思いもよらなんだ。1作,2作と作りつづけるなかで自生的に生まれてきたのだからしかたがない。
 処女作の神長官守矢史料館と2作目のタンポポ・ハウスの工事の時,研究室の大学院生と一緒に職人の手伝いをしたり,クリやイチイやクワの丸太を伐り出して“設計者支給”,“施主支給”にしたことはあったが,ついで的なことにかぎられていた。
 これが一変したのは,3作目のニラ・ハウスの工事の時で,斜面の竹林の伐採を地元の業者がちっともやってくれないのにゴウをにやし,施主とその友人知人に呼びかけて日曜日に来てもらい,伐り倒した。久しぶりの肉体労働とその後の宴会に参加者一同すっかり気をよくして,「また呼んで」。ゴルフの帰りのようなすがすがしい足取りで別れたのだった。
 以後,建設会社がやってくれない仕上げ工事,たとえば屋根にニラをポット植えするような見積不能,技術不安工事のたびに参加者を募り,そのたびごとに参加者は増えつづけ,ラストの茶室の内装(マキのボールト)の時には32名が3日間働き,プロの大工が“仲間に入れて”と言うほどの大にぎわい現場となった。なんせ,質は劣るもののタダの人手がわいて出るようにあるのだ。
 こうした素人が,特殊仕上げに合わせて工夫された手作り道具をにぎり,群れて立ち働く光景を,赤瀬川原平さんが「縄文人みたいだナア」と言い,それを機に縄文建築団の呼び名が生まれた。

 これまで,ニラ・ハウス,秋野不矩美術館,ザ・フォーラムの3工事に縄文建築団は出動している。3連戦したのは,藤森,大嶋,赤瀬川原平,南伸坊,谷口英久の5名。2戦参加が御手洗清美,秋野等,井上章子の3名。1戦参加は大勢すぎて数えたことはない。
 参加資格などないが,設計者,施主,その友人知人,私の研究室の学生といったあたりが実際の枠となっている。希望者は意外にも多くて,呼びかければ40〜50人にはすぐなるような感触もあるが,二つの理由で絞るようにしている。
 一つは,友だちの友だちはみな友だちでかまわないが,かならずすでに一度参加した人と人間関係があり,その人が呼んでくること。長くて2泊3日の作業は,雨の日の野外作業などつらいことも含むが,基本的な性格としては楽しみであり,皆の和気を乱すような人がいては困る。知らない同士でも,一つ作業を一緒に1日やれば,ここが建設作業のよさで,親しみが生まれるし,3日もやれば昔からの知り合いのような気持ちになる。
 参加者を絞る理由の二つ目は,事故。さいわいこれまで無くてすんだが,縄文建築団方式は事故に対しなすすべがない。事故は二つの方向に亀裂を走らせる。一つは本人および参加者で“縄文建築団は自己責任”ということにしているけれど,かすり傷ていどはともかく骨折になると“楽しみ”の範囲を出てしまい,参加者全員の気持ちは暗くなり,作業は続行不能となろう。私がいつも恐れているのは足場からの墜落事故で,縄文建築団が入る日には,朝,足場を一回りして確かめる。また,ある職人から「一命を取り留めるの一命は1メートルのことだ」と教えられたことがあり,気を抜きやすい1メートルていどの高さには特に注意している。高さ1メートルでも,足元からスッテンと倒れれば,頭部は3メートルの高さから床に落としたと同じ打撃を受ける。
 事故が亀裂を走らすもう一つの方向は施工会社。秋野不矩美術館の工事の時,大林組の現場主任から手を合わすようにしてやめてほしいと言われたのだが,工事の労働者として登録(労災に入る)されてない人物が現場で働いたこと自体が労働基準法違反であり,そのうえ事故など起こしたら,支社にとどまらず会社全体の工事保険料が値上げされ,害は全社に及ぶ。
 秋野不矩美術館の時は,工事とつながりの認められる私と秋野等(不矩さんの息子)さんの二人が現場に入り,足場を補強したうえにネットで包み,絶対大丈夫状態でテラスの手すり(クリの半割丸太)の取り付け工事をし,その間,主任はずっと見張っていた。縄文建築団が本格的に入ったのは,工事引き渡し後で,足場不用の付加的工事をやっている。
 万一事故が起こった時のことを考えると,誰も知らない人が入っているというのは実に不安で,知り合いの知り合いでもいいからすでに人間関係がある人に限りたいのである。

 人間関係は問うけれど,技能は問わない。誰でもいい。これこそ建設の美質というもので,誰にでもやる仕事がかならずある。縄文建築団の場合,いつも女性が何人か加わる。ニラ・ハウスの時は,昼食の用意,お茶の用意,そしてこれこそ大変なのだが宴会の用意は施主夫人が陣頭に立ち,手のあいた女性と一緒に用意してくれた。
 工事が始まると,かならずちょっとした買い物が必要になるから,買いに走ってもらわねばならないし,私が見て確かめないといけない物品は,運転しない私を店まで乗っけてってもらう。
 猫の手でも借りたいという言い方があるけれど,建設工事のなかには本当に猫の手でもできる作業があって,しかし,それを人がやらないことには次に進まない。ザ・フォーラムの時は炭の汚れをとる作業がそれだった。一夏かけて茶室のボールト天井の炭(本格的な白炭)を焼いてもらったのだが,その表面をどう洗うか。最初,水洗いすればいいと軽く考えていたが,試してみると,水分が抜けるとともに割れる。炭焼きおじさんに聞くと,本当の炭はそういうもので水が大敵。しかし,いくら白炭といったって表面についた灰や炭の粉をそのままでは服が汚れてこまる。結局,固く絞ったタオルで1本1本さっとぬぐうことにして,女性陣に日がな一日やってもらった。なお,女性のなかにも男同様に働ける人が7人に1人くらいはいることを付け加えておきたい。
 女性の効用にはもう一つあって,現場の空気が明るくなる。シロート集団の和気あいあい路線といっても,そこは建設現場でありまして,朝からずっと上を向いての手仕事とか寒風が吹くとかつらい状態がつづくと,やはり皆無口になり,やがて殺気立ってくる。肉体作業というものの特徴なのかもしれないが,男ばかりでやってると空気のなかに何かギスギスした微粒子が充満してくる。このことを知ったのは,ニラ・ハウスの茶室のボールト天井へのマキの取り付けで,やってるうちにだんだん和気が消え,空気の微粒子に角がたって殺気が生じかけたその時に,赤瀬川さんが「なんだか,相撲部屋みたいだな」と言い,その指摘に皆が納得の大笑いをして危機を脱したが,そういう時,女の人の姿が見えて声が聞こえたりすると,殺気はゆるみ,殺気がゆるんだことに皆安堵して,殺気が消える。

 縄文建築団は何でもやるわけではない。構造や設備や可動部分のような性能と精度が求められるところはしない。シロートの味が生かせるところにかぎられ,いきおい仕上げということになるが,それも屋根や床のようなうるさい問題のあるところはさけ,もっぱら壁と天井をやる。

 材料にも限りがあって,これまで手をつけてきたのは土と木,左官仕事と大工仕事。やはり自然素材の両横綱は土と木で,この二つはシロートとの相性がいい。どこにもあり,持って軽いし,加工もしやすく,精度を高くしなくても味がある。
 こうした縄文建築団的建築の意味については,技術についても表現についてもこれまでそれなりにあれこれ考えてはきた。しかし,他人のことについてが私の専門で,自分のこととなると専門外でよくわからないのだが,過日,他人のナルホド発言に接した。
 伊豆長八を記念するシンポジウムが松崎町であり,石山修武に呼ばれて出席した時のこと。左官仕事のあれこれが論じられるなかで,石山がおもしろいことを言った。
 「左官の仕事が大工,石工や屋根屋とちがっているのは,その作業が一つの見物になる性格を持つ」
 さすがは石山。左官仕事は,今でも工業化は不可能で,現場に左官だけが小屋掛けして,天候をにらみながらあれこれ調合し,塗る時は大勢で一気呵成に塗りあげる。その下準備の泥遊び的性格,塗る時の運動性と絵画性,たしかにスポーツや芸術に通ずるところがあるし,一場のスペクタクルとして見ることが可能だ。たとえば公共建築の大きな外壁を左官がコテ一丁で取りかかるのを町の人たちが集まって眺めるとすると,そこにはお祭り的な心の高揚が生まれるだろう。昔の建設にあって今の建設に失われたもの。その最大はお祭り的性格である。そしてその回復には左官の作業が一番いい。このように石山はのたまったのだった。
 先に他人に言われたのは口惜しいが,いい指摘だった。たしかに昔の家作り,学校などの公共建築作りには,皆が力を寄せて何かを成し遂げるというお祭り的性格があった。今では,起工式と上棟祝にわずかに残る気分が,全工程に流れていた。石山がそういう言い方をしたわけではないが,やや気どっていえば,
 〈建設の祝祭性〉
 これまでまったく論じられたことのない方面からの建設論,技術論が可能になる。
 石山の話を聞きながら,私は縄文建築団が経験したさまざまなシーンを思い浮かべていた。夫人連の食事の用意,高所苦手組に女性が加わり車座になっての手仕事。高所好きな連中の足場の上での作業。上から下へ声が飛び,それにこたえて下から上へ物が運ばれ,時に冗談を言い,笑いが伝わる。そして,作業の後の大宴会。自分たちがやってきたことは,建設作業なのにタダで働いたり,つらい時があっても二度,三度と好んでやってきたのは,あれはお祭りだったからかもしれない。そう考えると胸におちる。

 さて,最後にツバキ城縄文建築団のメンバーを紹介しておこう。まず中核となるのは,設計者の藤森,大嶋に施主の谷口英久と谷口香。施主英久は縄文建築団3連戦,香夫人はニラ・ハウスに参戦しているが,今回は食事,宴会担当。中核からの指示のもと働くのは四つのグループで,まずは東京組。最古参の赤瀬川原平と南伸坊それに古参の秋野等(京都の古寺の住職),井上章子(同夫人),永上敬(毎日新聞編集者),御手洗清美(諸物件購入担当)。初陣は,南伸坊の古い友人で私の建物のファンにしてその筋雑誌『さぶ』編集長の桜木徹朗,技術指導に当たる北沢鉄平石の北沢保人,谷口が連載中の『散歩の達人』編集者の山口昌彦,谷口友人の作田未知子と関口福子。私の研究室からは留学生の鄭昶源,陣正哲と大学院生の岩本昌樹,小沼佳久,谷川竜一,そして4月に大学院入学予定の早大・石山研4年の斉藤優子。
 ついで地元大島組。いずれも谷口筋で,喫茶店をやりながら左官もプロ並みの青山久志,自然製塩の坂本章弘,谷口酒造元従業員でギタリストの安達嘉久,焼き物の山中昭男,版画の本多保志,ニワトリの馬場仁。
 建設会社の社長もシロートとして参戦で,小泉工務店組は小泉邦彦とその知人の渡辺,湯村の両氏。
 〆は日経アーキテクチュア組で,この連載の前担当の村田真(現在日経ホームビルダー)と現担当の宮永博行。
 こう列記しながら今はじめて数えてみたが,都合32名。抑えに抑えてこの数になった。結局済んでみると主部隊は1泊2日だったが,残留組,再戦組もあり,延べでは126人。都合32人の素人集団の働きぶりは,次回を待て。