日本で唯一の屋根に椿の木を植えた店舗から作家、社長、杜氏である谷口英久が綴る抱腹絶倒の「Blog」 |
虎ノ門蒸留所の一場さんからジンの原料に御神火を使いたい、と言われた。
今年の夏のことである。 しかしうちにはジンの原料にする焼酎の余裕がない。 毎年ギリギリの量しか造れないので、どうしたものか、と思った。 ところが一場さんに会ってみると良い眼をした人で、なんとか期待に応えられないものか、と思案した。 それなら一場さんがうちに来て焼酎を作ってみませんか? と提案をした。 それが実現して、11月と12月の二回に分けて一場さんが大島にやってきたというわけである。 一場さんに教えたかった一番大きなことは焼酎を造る姿勢だ。 それでこんな文章を書いて一場さんに贈った。 「一場さんに伝えたかったこと。」 焼酎の仕込みは祈ることから始まる。 馬鹿なことを言うな、という人もいるかもしれない。 でも、自分にとっての仕込みは祈ることだ。 良い焼酎が出来るように祈ることはもちろんだけれど、すべての循環の中で焼酎は出来てくる。 麦を作る人、さつま芋を作る人がいる。 その作りが、どうかうまく行きますように、と、祈る。 大島まで船で運ばれて来て、嵐になると麦や芋が届かないこともある。 そうなると仕込みができないわけで、海が静まるように祈るしかない。 今年の仕込みでは腰を痛めて動けなくなってしまった。 杖代わりにビニールパイプを持って、それにすがって立ったりしゃがんだりしながら仕込みを続けた。 どうかこの腰が治りますようにと、これも祈るばかりだ。 麦を食べにくるネズミもいて、それは駆除をしなければいけないけれど、ネズミ取りにかかったネズミにもどうか成仏してください、とお祈りをする。 そんなふうにすべての循環の中で焼酎が出来てくる。 虎ノ門蒸留所の一場鉄平さんに 「ジンを作る原料として御神火を仕入れたい」 と言われて、それならまず焼酎がどんなふうに生まれてくるのか、ということを学んで欲しいと思った。 焼酎がどんな工程を経て出来てくるのか、そこも大切だけれど、それ以上に祈る姿を見て欲しいとも思った。 原料になる焼酎の特性を知ったうえでジンを作ることは大切だけれど、それ以前の「祈ること」自体を身体で受け止めることが大切だと思ったからだ。 ぼくはもう歳で、焼酎は大量には造れない。 だから焼酎の一滴は身を削った血のようなものだ。 そんな造りをしていたら、早死にしてしまうこともわかるけど、どうしてもそうなる。 人に言わせればバカだ、と思われても、やはりそれしか出来ない。 美味しいものを造るということはそういうことだと思う。 その根っこのところを、一場さんだけでなく、すべてのジンを作る作り手に知って欲しいと思った。 傲慢な言い方に聞こえたら申し訳ないけれど、本当にそう思うのだ。 ジビエの人たちが「命を戴く」ということを言うけれど、やはりそれは身をもって体験しなければわからないことだ。 それを一場さんに知って欲しかった。 そうやって生まれてくるジンの原料としての焼酎を体感したうえで造るジンは、やはり味わい深いものになるような気がする。 それも「祈り」かもしれないけれど、そういうものが伝わったら良いな、と思っている。 comments (2) : trackback (x) : PAGE UP↑↑↑
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