目白床屋篇

   床屋で髪を切るというのは滋養のある美味しいものをゆっくりと味わう気持ちによく似ている。床屋代が一回につき三千円として、その全額にカット代が含まれているわけでは決して、ないように思う。カット代がその大半としても、あの指先が頭皮のツボを撫でながら頭を洗うシャンプー代や、シャボンを塗った顔に、熱いタオルがふんわりとかぶさる、あの瞬間の心地良さもこの金額には含まれている。床屋のゆったりした椅子に寝そべって交わす親父さんとの会話にも実は滋養が含まれているわけで、それを考えると、ではそれを一円分だけ抽出するとなると、どんなことができるのか、長年、床屋の椅子に座るたびに考えていた。
   一円玉の買物というのを外国に旅行に出るたびにやっている。見知らぬ店に入って、その国の最小単位のコインを一枚使って買物をし、更に領収書を貰ってくる。なじみの店では甘えが生じるので、それは控える。これはかつて、ぼくが生徒として通っていた美学校孝現学教室の先生、赤瀬川原平さんが生徒に出していた宿題のひとつだった。その国の最小単位のお金というギリギリの買物には、当然相手の感情や、その国の価値観が含まれているわけで、それが最後に領収書を貰うというやりとりに、多面体の結 晶のように現れてくる。では近頃の東京でそれをやったらどうなるのか?
   これは先日、近所の熱帯魚屋さんにメダカを買いに出掛けたときに思いついたことだった。一匹、十円のメダカを
「二匹ください」
と、その店のおばさんに何も考えずに云ったのだけれど、おばさんは明らかに機嫌を悪くして、
「エーッ?二匹だけ?それじゃビニール代にもなりゃしないわよ」
と云うのである。もちろんそのあとに他の魚も買うつもりでいたので、それも告げたのだけれど、おばさんの不機嫌そうな表情は、ずっと続いたまま、魚の入った袋をつっけんどんにぼくに渡すと、おばさんは何も云わずに金だけうけとって店の奥に引っ込んでしまった。十円玉二枚の買物でさえ、こうなのに、ではこの東京で一円玉一枚と、それに領収書を貰うことがどういうことなのか、改めて試してみたくなってきた。けれどもいざこの買物を実行しようという日の朝は、こうれから何か大変なことが起きる前のような、暗い気持ちにさせられる。
   飯田橋の歩道橋のすぐ下にバーバーサトウという、落ちついた趣の床屋があって、この店をガラス越しに覗いてみた。カット代は四千円で、4000円分の1というカットが、どんなものか店先に立って想像しているうちに店に入れなくなってしまった。店内は混み始めていて、四つある席も、すべて埋まっている。上野まで自転車で出かけた帰り道、再びこの店の前に立ってみた。マスクをしてカミソリを持った若い女性の店員が、一瞬だけ鋭い視線を投げかける。
「髪の毛が何万本か、あるとして、それをカット代四千円で割った分だけ、つまり・・・一円分・・・」
と頭の中で考えながら、とうとうこの店には入れなかった。そこで作戦を変更して、目白で以前しばらく通った神保という床屋に行くことにした。ここは数か月前から店舗改装のために店を移して営業をはじめ、以来ぼくの足も遠のいている店だった。けれどもこの店には実に気の合う、同い年くらいの店員さんがいて、丸顔の彼に頼めば(実はルール違反ではあるのだけれど)考えてくれるかもしれないと思ったのだ。ところがいざ店に入ると、四、五人いた店員さんの顔ぶれはすっかり変わっていて、知った顔はひとつもない。入口で、どうしようか迷っていると、レジに立っている男が神妙な顔をして
「どうぞ」
と云う。仕方なくコートを脱いで入口に近い席に座り、眼鏡をこの若い男に預けた。二十代後半だろうか?ニコヤカだけど決して気がいい、という顔付きではない。その男に、
「どうなさいますか?」
と訊かれた。
「この上の部分は長くして、あとはぜんぶ刈り上げたいんですが、その前にちょっとお願いしたいことがあって・・・・・」
と、少し戸惑いながら、ぼくは云った。男はぼくの首にタオルを巻き、その上からテルテル坊主に似た長いエプロンをつけてくれる。
「はい?といいますと?」
「いや、一円分のカットが、どの位になるのか知りたいんです」
「はい?」
「いや、一円玉一枚分でカットするとなると、どのくらいになるかを・・・・・」
「一円って、あの一円ですか?」
「はい・・・」
「一円・・・で?」
「だから髪の毛が何万本かあるのか判りませんけど、そのカット代三千円を、一円分 だけ・・・」
   すると男は、細い目を、さらに細めて、複雑な表情になった。
「できませんね、そういうことは」
「いや、だから、カットもお願いしたうえで、そのうちの一円分のサービスを考えてほしいんです」
「できません。そういうことなら、お帰り願いますけど」
   男の表情は、物凄くこわばっている。
「いや、そう真剣な話じゃなくて・・・」
「うちではぜんぶカットして三千円なんです。それ以外は、できません」
「いや、だから三千円は払いますけど、そのうちの一円分を考えると・・・」
「できません、それならお帰りください」
   むこうで、ひげを剃ってもらっているおじさんが、わざわざ首を上げてこっちを見ている。
  男はそのあと、一言も口をきかなかった。
「いや、そこはもっと上まで刈り上げて・・・」
と一度ぼくが口を開くと、
「判ってます。今からやるんです」
男は云った。
   陽はとっぷりくれて、寒そうに背中を丸めて急ぎ足で歩いてゆく人の姿が、鏡のはしにうつっては消えていった。


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