谷中墓地をぬけて路地を右に曲がると、一円地蔵のあるお寺が見えてくる。 歩道に植物がズラズラと並べてあり、その前を通るたびにここの和尚さんはどういう人なのか、ずっと妙に思っていた。 植物には黄色と黒を基調にした油絵が、独特の文章とともに添えられている。 植物の植えられている鉢もさまざまで、はじめてこれをみる人は絵に気を取られてなかなかそれに気づかない。 水洗便所の水を溜める白い三角形の陶器の中に土が盛られ、そこから緑があふれている。 蚊取り線香をいれる豚の鼻を上に向け、改めてそこにマジック・インキで顔が描かれている。 お葬式に使う灯明にも土が盛られ、植物が芽をふいている。 なかでもひどく感心したのは、ごはんを炊くときに使うひと昔前のお釜に稲の苗が植えられ、その実った稲穂が風に揺れていることだった。 稲穂がそれを炊くお釜の中で成長してゆくのを見るのは、棺桶で産湯をつかうような、ビッグバンにも似た小宇宙を見るようで、見るたびに頭がクラクラする。 視線が一瞬、宇宙をさまよい、再びこの地に戻ってくるような気にさせられる。 この人は絶対にただ者ではないと、ここを通るたびに思っていた。 一円地蔵は、そのお寺の境内の入り口に祀られている。 左手に宝珠(ほうじゅ)、右手に錫杖(しゃくじょう)を持っているまではふつうのお地蔵さんなのだけれど、少し違和感を覚えるのは、舟形の光背(こうはい)にあの一円玉が大きく刻まれているのである。 お地蔵様の足元には香炉の黒い器があり、そこに銀色に輝く一円玉が無数に入っている。 この連載を始めるなら、まずここにお参りにくるべきだと、突然思いはじめた。 谷中に住んでいたのは五年も前のことだから、考えてみると、もうずいぶん訪れていないことになる。 朝の十時に日暮里駅で降り、谷中墓地を抜けて、一円地蔵のある永久寺まで歩く。 すると歩道にあんなに飾ってあった絵が、きれいに片付けられて、通りが静かになっている。 「まさか?」と思って一円地蔵のある境内を覗くと、そこは相変わらずそのままだった。 今日は一人では心細いので、この連載の担当編集者であるM・山口にもついてきてもらった。 なにしろ和尚さんがどんな人なのか、ちょっと見当が。 境内の賽銭箱の傍には金色に輝く船のスクリューが新たに飾られていた。 通りの絵を片付けた分、又、ひそかに境内で火がくすぶっているようにも思えた。 境内に進んで、お勝手に通じるインターホンを押してみた。 応答がない。 お勝手の入り口には収穫した稲穂が何本も吊るされて乾燥させてあった。 きっとあのお釜の水田で採れたものに違いない。 再びインターホンを押すと、華やかな女性の声が奥からこちらへ近づいてくるように、 「ハーイ、開いてますよォ」 と響く。 するとお勝手の戸がスルスルと開いて、静かな温かそうな年配の女性が顔を出した。 突然訪ねたことを詫びながら、 「一円地蔵のことをお伺いできれば」 と恐る恐る申し出ると、奥から八十六歳になる住職の平塚良宣(りょうせん)さんが現れた。 「一円地蔵について・・・」 と再び話すと、良宣さんは 「ああ・・・」 と少しはにかんだように眼鏡の奥で笑みを浮かべて話してくれた。 「一円はね、粗末にされているんですよ、今じゃ子供も拾いませんからね、道に落ちててもね。 それでその一円を大切にしようってことでここに一円地蔵を祀ったわけです。 芸大が近いでしょ、それで芸大の一柳雅一先生が彫ってくれたんですわ。 でも最初はね、銀行もとりにきてくれなかったんですよ。 もう動かせないくらい一円玉が貯まってもね、ところが消費税ができたでしょ、そしたら一円玉が足りないって、すぐにとりにきました。 でも消費税ができてからこの一円地蔵にお参りして一円を納めてくれる人も減っちゃったね。 ま、金を粗末にするなってことですか?」 良宣さんは、ぼくの予想と違って、ひょうひょうとした人だった。 その日はお逢いできただけで、なんだか満足してしまって、良宣さんが書かれた本を二冊いただいて、そのまま帰ってきてしまった。 ところが、この原稿を書く段になって、これが一円玉の買物になっていないことに気がついた。 一円玉を納めたのだから、その受け取りを貰えば一円玉の取引になるんじゃないか?と自問自答して決めた。 もう夕方の三時半をすぎていて、そろそろ冬の陽は、傾きはじめている。 大急ぎで山手線に乗り、四時すぎに一円地蔵の前にたどりつく。 一円の領収書を貰うために、百六十倍もの電車賃を使ってしまった。 今日は永久寺の勝手口は開いている。 大きな声でアイサツをすると、良宣さんは今仕事中だから少し待って下さいといわれ、本堂の傍の応接間に通された。 革貼りのソファに一人座って、「なんだか大変なことになってきたなァ」とだんだん心細くなってきた。 静かに現れた良宣さんに、 「実は一円玉で何が買えるか?ということをやってまして・・・」 と大まじめに話した。 すると良宣さんは鋭い眼をほころばせて、けれども困ったように笑い、 「いやァ、いちいち一円玉の受取りを書いていたら大変だから・・・」 といって本堂に通してくれた。 四角いプラスチックのケースの中で一円玉の波が輝いている。 「昔はね、お布施をしてくれた人に一円地蔵のお札をあげていたことがありましたなァ」 と良宣さんは一人言のようにいう。 「じゃ、それを・・・」 とワラをもつかむ思いでお願いした。 再び奥へ消えた良宣さんがゴム印を持って現れた。 「押しなさい、いくらでも押しなさい」 と云われて、仕方なく自分のノートに自分で、それを押した。 「もっとグーッと押さないと・・・」 と注意される。 再び 「この判のわきに一筆というのは?・・・」 と自分でもしつこいなァと思いながら尋ねると、 「もう眼が悪いから・・・ねェ?」 と云って、良宣さんは又、困ったように微笑むのだった。
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