西池袋鮨屋篇

   鮨屋に行くことになった。  といっても自分一人で決めたことである。
お鮨を一円分握ってもらい、領収書を貰ってくる。
編集者のM・山口にそう告げると、彼は口を薄く半開きにして、絶句した。  一人ではやっぱり心細いので、M・山口に同伴してもらうことになった。
   池袋で十一時に待ち合わせをして、少し立ち話をしたあとで、西池袋の五福鮨にむかってゆっくり歩いた。
どうも歩が進まない。
開店は十一時半で、まだ暖簾がかかっていない。
   午前中の、毒気のゆるんだ歓楽街を一周して、再び五福鮨の前に立つ。
   暖簾がかかった。
   けれども一人か二人、お客がいた方がいいんじゃないか?と思って、一、ニ分待ってみた。
   誰も入らない。
   ここが混み始めるのは十二時少し前の、会社の昼休みが始まる頃からである。  先月、誕生日を迎えた日に、実は一度この店で握り一・五人前、一五00円というランチを食べにきた。  そのときに一円の鮨のことを思いついたのだ。
  カウンターの奥に座って握りの注文をしたのだけれど妻が海苔を食べられないので何か他のものを握ってもらえないか、目の前の若い板前さんに訊いてみた。  板前さんは柔らかい表情をした人で
「ハァ? 海苔が?」
と云ってしばらく別の鮨を握ったあとで、おもむろにのり巻と同じネタで即興の鮨をいくつもカウンターに並べ始めた。  かっぱ巻のきうりだけではバランスがうまくないのか、そこに小さくカイワレを添えた鮨がまず並んだ。  続いて鉄火巻。  これも色のバランスを考えて、マグロの赤に緑のものを少し添えて、そっとカウンターにのせてくれた。  我々の目の前にはすりガラスの戸のついたネタを入れておくガラスケースがあり、その戸をスッと引くと板前さんの手の動きを見ることができる。  ネタを切る小さな包丁がスーッと流れて白い美しい手がムダなく動いてゆく、白いしゃりが掌のなかで握られ底にバランスよくネタが載せられてゆく。  遠目には坪庭のように見える。  坪庭は一瞬、間をおいて、我々の目の前に並ぶ。  すりガラスのケースの戸は再び閉じられる。  すると板前さんの手の動きもそれに遮られて見えなくなる。  米一粒に小さなトロかマグロ、玉子焼きでもいい、そのいずれかをのせて一円分の鮨を握ってもらえたらどんなにいいだろう?  そう妻に小声で告げると
「でも今日はやめてね」
とキッパリ云われた。
   M・山口を先頭に我々は五福鮨の店内に足を踏み入れた。  客はまだ誰もいない。  前回と同じく奥のカウンターに座った。  けれどもランチに一度入っただけなので、知り合いの店ということにはならないだろう。  板前さんはこの前の眼鏡をかけた優しそうな人ではなく、今日は眉のきりっとした人が立っている。  もうそれで大分弱気になってビールを一本注文した。  このあいだ打ち合わせをした通り、M・山口はこの一円のやりとりに関しては一切口を開かないことになっている。  ビールをくみかわして
「春だねェ」
などというどうでもいい話をしていると客がどんどん増えてきた。  一円の鮨だけ頼むのは、いくら何でも悪いので一・五人前の鮨をまず注文した。  カウンターには大きな笹の葉がしかれ、そこに鮨が次々と並んで行く。  慌しくなってきたので客を回転させるためにも注文に素早く応じるのだろう。  そうやって鮨をつまんでいるうちに
「おみおつけはどうなさいますか?」
と訊かれた。
「いや、まだ・・・・・もう少し」
と云ってビールをもう一本注文した。  店のカウンターはほとんど埋まりテーブルもきちきちになっている。  十二時を廻ってしまった。  親父さんらしき人がさっき腕時計を外して目の前に儀式のように置いたのを見て
「あっ、忙しくなるのだな」
と思った。  若い板前さんも注文を忙しそうにこなしている。  ピリピリしたカウンターの雰囲気がこちらにも伝わってくる。  どう考えてもここで一円の鮨を握ってもらえるとは思えない。  注文した一・五人前の握りも、すでに食べ終えてしまい、仲居さんがときどきチラッとだけカウンターの奥に陣取った我々の方を見る。  外にはもう、ランチを待つ客の行列ができているらしい。  M・山口は、
「さぁ、どうする?」
といった表情でニヤニヤしながらぼくの方を見る。
「考え直そうか?」
とボソリと云ってみた。  米屋と魚屋で一円分の買物をして、自分で鮨を握ろうかとも考えた。
「だめです」
M・山口は物凄く強い口調で、はっきり云った。  となりの席の若い女性が二人、実においしそうに玉子を口に入れるのが見えた。  仕方なく玉子だけをひとつ貰い、トロもひとつ握ってもらった。  するとカウンターの客が波をひくように帰ってゆく。
「ワンステップですねぇ」
M・山口は嬉しそうに云った。  つづいてトロも並んだ。  トロが並ぶのと同時に
「あのう実は一円で何が買えるかというのをやってまして、鮨を一円分握ってもらうなんていうのは・・・・・」
と訊いてみた。  若い板前さんが
「ハ?」
といった顔をしてこっちを見た。  奥の親父さんは遠くを見るような表情を一瞬だけした。  二人で顔を見合わせたあと、親父さんはパッと表情を切り換えて、
「しゃりは二0gで一円なんですよ」
と云いながらそれを掌で一瞬転がすようにして、ぼくに見せてくれた。
「え?いいんですか?」
と訳のわからなことをぼくは口走った。  けれども二人はまた忙しそうに立ち働き始める。  若い板前さんはぼくと目を合わせないようにしているのが判る。  そこでもう一度、
「あのう、さっきの一円の鮨ですけど・・・・・」
と立ちあがって云うと、カウンターの客の鮨を食べる手が止まって、一斉にこっちを見た。
「ハイ、なにで握りましょう?」
と親父さんは云う。
「え?」
と云うと、
「マグロにしますか?」
と云ってこっちを見る。  頭を下げた。  するとマグロを小さく切り、しゃりを握って、トロの脇に置いてくれた。
「だいたい十六分の一の大きさなんです」
親父さんは云う。  となりの女性が
「ヘェー一円だって」
と嬉しそうに呟く。  するとM・山口は自慢気に
「六月号の・・・・・」
とつい口走った。
「黙ってろよ!」
ぼくは小声でM・山口に云った。  まだ領収書をもらわなければならない。  取材だとわかればそれ相応に対応してしまうのが世の常だ。  一円の鮨には、ちゃんとワサビも入っていてそれが小さなマグロとしゃりの間から覗いている。  親指と人差し指、中指の三本を使ってそれをつまみ、しょうゆをつけて食べた。  ちゃんと鮨の味がした。


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