築地包丁研ぎ屋篇

一円持って店に行き、何か買えるか尋ねてみれば、笑われるより無視される。
物価の高い東京で、一円玉で買える物。 それは何かと考えて、やってきました包丁研ぎ屋。
もし一円分研げたなら、領収書も欲しいんだけど・・・・・。 ヤラセなしの真剣勝負いざ!!

   台所にある一番切れない包丁を鞄に忍ばせて、朝早く築地の場外へと向かった。 包丁を一円分研いでもらえないか? と思ったからである。 包丁は剥き出しでは怖いので、ティッシュの空き箱を破って刃を包み、それを輪ゴムできつく縛った。
   築地に着くと朝の八時をすこし廻っていた。 駅から市場まで歩くあいだに仕入れの帰りらしい竹カゴをぶら下げた男たちと何人もすれ違った。 竹カゴからはみ出した玉子焼きや刺身のツマにする大根の千切りがチラチラ覗いている。
場外へ一歩入るとすぐ、走ってきたごつい自転車にぶつかりそうになった。 あわてて身を引くと今度は背後の店の軒先から
「安いよホラ、マグロ持っていきな」
と、嗄れた声をかけられる。
   包丁研ぎの店がどこにあるのか、人に、もまれながら場外の市場をウロウロ歩きまわった。
   すると市場のまん中あたりで緊迫感の漂う一軒の店を見つけた。 「有次」という店で、店頭に飾ってある包丁を一目見ただけで、その店の心構えがよく判った。
店の奥の帳場に一人、眼鏡をかけて煙草をくゆらす六十すぎの親父さんが腕組をして座っている。
その奥の裸電球の下で包丁を研いでいる三、四人の男の背中が規則正しくユラユラ動いているのが見える。
   ここに入るのは、やはり気が引けて、そのむこうにある「杉本」という包丁屋さんの店先に立った。
所狭しと並べられた包丁の真んなかに埋もれるようにして包丁を研いでいる銀ぶちの眼鏡をかけた中年の男に、ためらいながら声をかけた。
「あのう、ここでは持ってきた包丁っていうのも研いでもらえるんですか?」
ぼくがそう訊くと眼鏡の男は首にかけている白いタオルで顔を拭きながら、
「うちは、ここで買ってくれたものだけしか研いでないの、ワルイネ」
と柔らかい口調で言った。(そうか、ダメなのか・・・・・)と、少しホッとした。
そこで自分の緊張もほぐれたので、
「包丁を研ぐのって一回いくらなんですか?」
と男に訊いてみた。
「五百円」
男は今度は手をとめずに言った。
「じゃそれを一円分研ぐと何センチ研げるかなァ?」
と冗談ぽく軽い感じで言ってみた。
「一円? 一円って、なに?」
男はまた包丁を研ぐ手をとめて顔をあげた。
「なんだィ?」
奥にいた親方らしい男がこっちをジロっと睨む。
もう一人旦那さんなのか物腰の柔らかそうな、職人さんとは雰囲気の違う男が
「ハイ? いらっしゃい?」
と言いながら店先に出てきた。
「いや、あの包丁を一円分研ぐと、どのくらいになるか・・・・・って考えて、今訊いてみたんですけど・・・・・」
   ぼくはまた少し緊張しながら言った。 三人の男が黙ってぼくを見つめた。
「一円分? 包丁を研ぐの?」
そう言って旦那らしき人はフワッと困ったように笑うとももう一度
「一円分?」
と考えるように言って店先の包丁を見つめたまま目線が動かなくなってしまった。
もう一度説明をしてみたけれど、
「いやァ・・・・・」
といって、こっちを見ようとはしなかった。
   仕方なく、さっきの緊張感あふれる「有次」の店先にもう一度立った。 親父さんは客らしい男と何やら話している。
奥で包丁を研いでいた男が一人、その手をとめて、顔付きにもその風体にも年季の入った魚屋さんらしいやせた中年の男の注文をきいている。
「もう少し早くなんえェのか?」
「そうですね、でも、これから研いでも二日・・・・・いや三日・・・・・かかりますね」
   包丁研ぎの男は坊主に近い頭をなでながらそう言った。 まだ三十歳そこそこの齢にみえる。
「商売になンねェじゃねェかよ」
魚屋らしき客は笑いながら、若い職人の肩を叩いている。
赤いベルベットの布の上に飾られたショーケースの中で鈍く光る包丁の突端を眺めながら話しかけるタイミングを待っていた。
親父さんの話がふと途切れたところで
「あのぅ、ここでは持ちこみの包丁も研いでもらえますか?」
と、今度はつとめて普通の声でそうきいた。
「やるけど、ものを見ねェとなんともいえないね」
親父さんは帳場の椅子に座り直りながらいう。
鞄の底にあった包丁をとり出して、ティッシュの空き箱で巻いたサヤを抜きながら、親父さんの目の前に差し出した。
親父さんは柄(ツカ)を握って、ぼくのステンレスの切れない包丁を何度か表裏かえすように光にあててみたあとで
「千円だな。でも一週間預かることになるよ」
と言った。
「あのう実はこの場外の市場の中で一円で買えるものを探しているんですけど、この包丁を一円分研いでもらうっていうのはできませんか?」
ぼくは一息に言ってみた。
「一円玉で買えるものォ? なんだよお?」
親父さんは少し高い声を出して、奥で包丁を研いでいる若い衆の方を見た。若い衆の背中の動きが一斉にとまって、こっちをふりむいた。
男は四人いる。皆んな三十代くらいの若い職人である。
「判んねェなァ、一円分研いでどうすんだ?」
親父さんは顔を少し上気させながらそう言うと、ぼくの手からティッシュのサヤをとり、それに包丁をそっとおさめて、ぼくに手渡した。
「なんだってンだ?」
親父さんが怒ったような困った表情をして一言そう言うと、奥の若い衆が一歩、こっちに向かって動いた。
   ものすごく妙な空気のまま、ぼくはその包丁を握りしめて店の外に出てしまっていた。


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